こんにちは。
難波です。
2020年に予定されている小学校での英語の「教科」化に伴い、文科省からも色々な資料が提示されるようになってきました。それをながめているうちに、子ども英語に関わった60年の経験からみて、いろいろと言いたいことが出てきました。しばらくこの点について書こうと思います。
以下は、2017年3月に告示された「小学校学習指導要領・外国語」からの抜粋です。少し長いです
が、引用しますね。
まず、目標がかかげられています。
「英語学習の特質を踏まえ、以下に示す、聞くこと、読むこと、話すこと[やり取り]、話すこと[発表]、書くことの五つの領域別に設定する目標の実現を目指した指導を通して、第1の(1)*及び(2)*に示す資質・能力を一体的に育成するとともに、その過程を通して、第1の(3)*に示す資質・能力を育成する。」
「第1の(1)*(2)*(3)」については後述しますが、「話すこと」が「やり取り」と「発表」の二つの領域に分けてありますね。前者がいわゆる「コミュニケーション」で、後者は「プレゼンテーション」を意識してのことでしょう。
そして「第1の(1)*の内容は、次のとおりです。
第1の(1)* 外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身に付けるようにする。
まず、この部分に疑問を感じました。
「外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気付き、これらの知識を理解するとともに、、、」とあります。しかし、小学生の段階で、ここに書いてあるような「文字、語彙、表現、文構造。言語の働き」の日本語と外国語との違いに「気づき」、「知識」として理解する必要があるのでしょうか?
子どもたちの中には言語比較の「お勉強」を楽しめる子はもちろんいるでしょうが、おそらくごくごく少数だと思います。また、この「知識」偏重の考え方では、「言語」は「使ってこそ」のものだということを感じ取る前に「お勉強するもの」だと子どもたちにインプットされてしまうのではないでしょうか?
日常的に不自由なく使っている母語であっても、国語の「文法授業」を苦手に感じる子は少なくありません。外国語の授業の導入期に「知識の理解」を求める姿勢には大いに反発を感じております。ことばは母語がそうであるように「出来るが先、知るは後」だと信じております。【難波】